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1月3日 国東半島霊場巡りトレック
僕は幼児の頃から地図帳を眺めるのが大好きだったらしい。戸数4軒、隣の集落まで4kmのV字谷の底にあるチベット自治区のようなロケーションの実家で、僕は地図帳を絵本代わりに育った。4歳まで海すら見たことがなかった僕にとって地図はいわば世界の窓。小学校が廃校になったのを不憫に思った父が里に下りることを決断して今の町に引っ越してきてからも僕の地図好きは変わらず、地図を開いて空想の中で旅する習慣は今も変わらない。
国東半島との出会いは、たぶん漢字が読めるようになった頃だったと思う。最初は大分県に三重、四日市、熊野など共通の地名を見つけて大騒ぎしていただけだったろうけど、小学生になった頃にはそのふたつの土地の類似性...つまり円形の湾の西岸に位置する平野であり、北西に“京都”があること。湾の最深部に港(“津”と“中津”)があり、西側にある霊場として有名な山脈を源流にした中小の河川が肥沃な平野を貫いて東の遠浅の海へと注ぐこと。
平野を南北に伸びる二桁国道と鉄道があり、南にはリアス式海岸を持つ山深い半島があり、“熊野”の南には温泉、その半島の付け根には日本有数の格式を持つ神社(伊勢神宮と宇佐神宮)...を直感的に感じていた。
そして、21年前ともちゃんと結婚する時に実際に訪れてみると、その直感は確信へと変わった。地形や地名、文化的背景とかいった目に見えるものではない、夏の匂い、冬の風の音といった“空気感”...何もかもが故郷に似ていると確信したのだ。
そんな中、今回の帰省でなんとなく実家の道路地図を眺めていて驚いた!三重、四日市、熊野だけではなく、尾鷲!...がある(驚)。こりゃ、もう一度行ってみるしかあるまい!ってことで、国東半島へ向かうことにする。
元々“別冊太陽「山の宗教」”という本を読んで国東半島・六郷満山の峯入りに興味津々のMasaは当然ながら、熊野磨崖仏をこの目で見たいというMamaも参加する(じいちゃん&ばあちゃんベッタリのAzuはお留守番)。 まだ辺りは真っ暗な午前6時、じいちゃんのアコード(Si-R!)を借りて北九州の実家を出発。
三重のR23に似た雰囲気のR10をコンビニで朝食を補給しながらひたすら南下し、周防灘から昇る日の出を眺め、まだ人出の少ない宇佐神宮の先から国東半島方面へ左折する。国東半島の西岸をぐるりと半周し、まず僕らが向かったのは六郷満山の峯入りの中心地である千燈岳。 九州にやってきてから急に思い付いた旅なのでトレッキングの装備は皆無。ザックがないのはもちろん、僕はDannerのウォーキングシューズ、Mamaはメレル・ジャングルモック、Masaにいたっては普通の運動靴なので無理は禁物である。
旧千燈寺跡の駐車場にアコードを停め、神仏混合の時代の名残である鳥居をくぐって美しい石畳を進む。5分ほどで旧千燈寺跡の豪壮な石垣が見えてくる。
国東六郷山の中核をなす大寺院で、かつては「西の高野山」と呼ばれていた旧千燈寺は奈良時代の創建。平安末期までは隆盛を極めた国東六郷山だったが、熱心なキリシタンでもあった豊前の守護大名・大友宗麟によって邪教とみなされて焼討ちに遭い、16世紀後半に廃寺となったという悲しい歴史がある。
千燈寺跡に今も残るのは見事な石垣を積み上げた坊跡と石畳の参道、本堂(護摩堂)跡の前には半肉彫りの阿吽(あうん)の仁王像が立つのみ。今や仁王像が守るべきはずの本堂はなく、その素晴らしい出来栄えが逆に悲しく思える。仁王像の間を通り抜け、苔むした基石と階段に向かって静かに手を合わせた僕らは、さらに石畳を奥へと進む。
石畳が途切れたあたりで、参道は鎌倉積みと呼ばれる乱積みの石段に変わる。杉の美林を貫くように伸びる石段を急登すると、岩崖に掘られた岩屋にすっぽりと覆われるように奥ノ院が建っている。建物自体はさほど古いものではなさそうだけど、その岩屋に彫刻された阿弥陀来迎磨崖仏が素晴らしい。ほとんどが風化してその判別は難しいけど、右側のものは辛うじて阿弥陀如来と判る。
奥ノ院から左に伸びる道を進むと眺望の良い岩場に出る。ここからの眺めは素晴らしく、これから向かう不動山(352m)、円錐形が美しい千燈岳(605m)など両子火山群を一望出来る。
奥ノ院を後にした僕らはお堂の右手へと伸びる道を経て五輪塔群へと進む。この五輪塔、実際に1000基近くあるそうで、もしかしたら寺号「千燈」の由来なのかもなぁって感じる。(もしそうなら「千“搭”寺」だけど。)鬼が一夜のうちに伊美別宮社から千の石塔を運ぼうとして、あと1基で夜が明けて運びことはできなかったとの言い伝えがあるそうで、鬼とは誰か、どうして鬼が挫折することになったのか?古い伝承が象徴的に表している意味を考えるのは楽しい。
五輪塔群から10分ほど山道を登ると、舗装された車道に面した広場に出る。広場には最近安置されたと思われる仏頭の彫刻が一列に並び、その先にまるで軍艦のような形をした不動山が見える。
車道をしばらく歩いて五辻茶屋がある千燈岳の登山口から不動山の山頂にある五辻不動尊を目指す。山頂への登山道は信仰の道でもあって、不動尊の信者や地元の人々によって良く整備されていて、今日の我が家の靴で充分のようだ。正面に大きな岩塊が見え、途中から岩を削った石段となる。
ここから眺める周防灘はなかなかの絶景で、足元の国東半島の沖には黒耀石で有名な姫島も確認できる。展望所から五辻不動尊までは「馬の背」と呼ばれる幅40cmほどの両側が切れ落ちた階段となる。鎖が渡されていて危険は全くないけど、幅が幅だけに鎖を握りしめながら一段ずつ慎重に登る。
石段の先には一対の石灯籠が見え、その先に目指す五辻不動尊の不動岩屋が姿を現す。お堂は奥ノ院同様、不動山の岩に食い込むように建てられ、不動明王は岩のくりぬかれた部分に安置されている。お堂は自由に参拝できるので、僕らは格子戸を開けて中に入り、お参りをしておみくじを引く。
参拝の後は不動山の岩塊を巻くように付けられた周回路を回って所々に掘られた岩屋に収められた仏像を見ながら往路を辿って下山した。
千燈寺の絵地図CLICK
Mamaとふたり、『あとは熊野磨崖仏でも見て帰ろうか?』などと話していると、Masaがどうしても大不動岩屋に行きたいと言い出す。持参した唯一のガイドブック“るるぶ大分”のたった一頁にはそんな場所は載ってないし、Masa本人も“別冊太陽/山の宗教”の表紙にある写真の記憶だけが頼りで場所すら知らないのだという。(僕とMamaはその写真すら記憶にない...笑) 確か旧千燈寺跡の駐車場前に絵地図の看板があったぞ!ってことで看板まで戻って確認すると...あった!確かに伊美川を挟んで反対側に広がる「西不動」に小さく「大不動岩屋」の文字がある。でも、情報はこれだけ(涙)。 どこから入るのかすら判らないまま、とりあえず県道の際に記載されている最寄のランドマーク「尻付岩屋」を探してアコードを走らせる。
県道を1kmほど走ると「尻付岩屋」を発見!クルマを停めて岩屋の案内板を見てみると、「大不動岩屋0.9km」の文字を見つける。『行場の道を900mかぁ、ちょっと遠いよなぁ。』Masaが呟く。こういう場合、彼の本音は正反対で「たった900mなら行きたいなぁ。」だったりするので(笑)、もしも辿り着けなくてもいいから出来れば歩かせてやりたいなぁって思いつつ、アコードに乗ったまま待ってるMamaにお伺いをたてに行くと...『しょうがないわねぇ〜。いいわよ、歩きましょ。』苦笑しながらMamaが許してくれたので、アコードを林道脇に停めて、アテもなく林道に沿って歩き始める。
『絶対にスゴイからさ、パパたち驚いて腰抜かさないでよ!』って不敵に笑うMasaの記憶にある写真だけが頼り。大不動岩屋ってぐらいだから大きな岩屋があるんだろうなぁ程度の感覚で、実際に目的地がどんな場所なのか?何があるのかさえ判らないミステリーツアーのような登山は、これまでの朝になってからの思いつきであっても可能な限り情報を収集してほぼ完璧に準備する登山とは違ってとても新鮮だ。地図もGPSも予備知識さえもないままで、目を凝らして膝ほどまで生い茂る雑草の中にかすかに残る踏み痕を発見し、時折後ろを振り返ってその光景を記憶に焼付けたり道端の草を結んでマーキングしながら進むスリル...まるでボーイスカウトの「追跡法」の訓練のようでメチャ楽しい。 そんな風にドキドキしながら進むこと30分...僕らを待っていたのは想像を絶する究極の絶景であった!
『あっ、あれじゃない?』 Masaの叫び声に振り返ると、うっそうと茂る広葉樹の間、右手後方の絶壁の中腹にぽっかりと口を開ける洞穴が見える。間もなく道端に小さな看板が現れ、その洞穴こそが僕らの目指す大不動岩屋であることが確認できる。 『ああ〜っ!あ、あれ見て!スゲェ〜!』 再び響くMasaの声に空を見上げると...天をも突き刺さんばかりにそそり立つ岩の塔が現れる。 な、なんじゃ、コレは...その圧倒的な迫力にただ呆然と立ち尽くすだけの僕らである。
看板から大不動岩屋へはほぼ垂直に立ち上がった岩崖をトラバースする、まさに“行場”の様相。岩のわずかな窪みを辿って三点確保しながら慎重に進むけど、時折倒れた低木の根を足場と勘違いして足を取られるシーンもあって、非常に危険なルートだ。Masaは例によって敢えて難しいルートを選ぶ“なんちゃって”ボルダリングを楽しみながらのトラバースだけど、後で写真を見たら“なんちゃって”じゃなかったりする(笑)。
大不動岩屋に向け徐々に高度を上げるたび、後方の岩峰の全貌が明らかになってくる。麓の木々と比較すると100m以上はあるだろうか?(Masaは80mぐらいだと言ってたけど)バベルの塔と見紛うばかりの尖った岩峰が何本もそそり立つ様は、どうしてこんな絶景が今も無名のままなのかが不思議なぐらいである。
急峻な崖と格闘すること10分ほどで大不動岩屋に到着。岩屋の中に入って崖の縁に座ってその絶景を充分に堪能する。 僕らの他には誰もいない静かな岩屋に無言で座っていると、普段しゃかりきになって生きている自分がなんだか馬鹿馬鹿しく思え、泰然とした気持ちになれるのが不思議だ。 30分ほどを大不動岩屋で過ごした後に下山開始。一度ぐらいはミスルートするかもなぁって覚悟してたけど、要所要所に付けたボーイスカウトにしか解らないヒミツのマーキングを辿ったら全く迷うことなくクルマに戻ることが出来てホッと一息である。
アコ−ドに戻った僕らは国東半島を縦断する県道を通って、、かつて六郷満山の総本山として隆盛を誇った真木本堂に立ち寄る。実際に訪れてみると、えっ、これが??ってな決して立派とは言えないあまりにも質素な本堂に驚くけど、堂内に収められた全てが重要文化財という9体の仏像のオーラは尋常ではなく、かつての栄華がしのばれる。
真木本堂からは、道路脇にさりげな〜く奇岩が林立する三の宮の景に立ち寄りつつ熊野磨崖仏へ。麓の胎蔵寺前の駐車場から遊歩道のようなよく整備された参道を3〜400m歩くと、苔むした鳥居が現れる。鳥居からはこれまた鎌倉積みの乱積石段が始まる。
この石段、段というよりもデコボコのスロープと呼んだ方が相応しいような造りで、ウォーキングシューズよりも軽登山靴がぴったりってな感じ(笑)。石段の下で写真的には両側の手摺がなかったら良いのになぁ〜なんて思ったけど、はっきり言ってコレ手摺がないと危ないわ...。
この石段にも千燈寺の五輪塔と同じような伝説があって、鬼が一夜で築いた石段なのだという。さすがはやっつけ仕事(笑)、“千日道路”こと名阪国道並みにボコボコなはずだな(笑)
ま、何とか足を挫くことなく石段を登り切ると、左手の巨大な崖に不動明王が見えてくる。 不動明王って言えば怒りの表情が一般的だけど、ここのは何となく優しい表情。能面を下から見ると笑顔に見えるってのと同じで、あまりに巨大なのでそんな風に見えるのかな、などと話しながら近づくと右隣に大日如来像も姿を現す。 宝冠がないので一瞬、薬師さん?って思ったりもしたけど、間違いなく大日如来。こちらは仁王さんに比べるとかなり写実的で新しいように思えるのだが、13世紀の記録には既にここにこの2体の磨崖仏が存在したとの記録があるということで、どちらも相当に古いものであるのは間違いない。
ただ、気になったのは、比較的しっかりとしたタッチで彫られた仏さんだけど、首から下は彫りがあまりはっきりしない。頭から麓まで同質の石種だけに下部だけが風化したとは考えにくいので、たぶん首から下は彫刻されなかったのではないか?と思える。 『もしかすると、仏様が岩から湧き出る感じにしたかったんじゃないかなぁ?』このMasaの言葉で全ての疑問が氷解する。
そうだ、ここは熊野権現社なのだ!役行者が大峯の頂上で本尊を迎えるために祈ったら“湧出岩”から次々と仏が湧き出してきたという伝説...この伝説を表現するために敢えて身体を彫らなかったのだ!大日如来像の前でそんなことを話しながら過ごした僕らは、磨崖仏のさらに上にある熊野権現へと進む。
熊野権現社にお詣りをして、僕らはお社の周りをちょっとだけ歩き回る。我が心の故郷の痕跡を探すためである。まず目に付くのはお社の裏手の巨大な岩。まさに熊野速玉大社元宮・神倉神社を彷佛とさせる大岩である。しかもその大岩の前には梛(なぎ)の木が植えられていて、これこそまさに速玉さんの象徴!キーワードが見事なまでに符合して嬉しくなってしまう僕らである。(梛は熊野権現の御神木で熊野速玉大社の境内に立つ推定樹齢1000年の梛(なぎ)の大樹が有名)
こんな感じで、国東半島霊場巡りトレッキングはひとまず終了。カーナビもガイドブックも地図もGPSもなしで訪れたにしては、充分に満足出来る旅となった。でも、実際に訪れてみると、ここは日帰りでチョロっと来るには勿体無いほどの歴史と自然が魅力的な場所。いつかダッちゃんで泊まりながら3泊ぐらいかけて訪れたいね!僕らはそんなことを話しながら帰路に着いたのだった。
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