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 12月16-17日 紀伊半島霊場トレック&海山忘年会

  
大峯奥駈道 mission.4


銀杏と椿のコントラスト(神倉神社)

玉 置 神 社

R42を走るのってなんだか久しぶりだよなぁ...なんて思ったら、前回は9月の魚飛渓シュノーケリングの時だから南に向かうのはなんと3ヶ月ぶり!キャンプinn海山での忘年会に合わせて今日は、紀伊半島を半周してこれまでの紀州行で見逃した場所を巡る旅である。

我が家はこれまで20年にわたって散々紀伊半島を巡っていて、ありとあらゆる場所を訪れて行ってない場所なんてないかのように思えるけど、ガイドブックや地図を眺めていると実はまだ見逃している場所も多い。今日はそんな中からMasaやMamaが以前から強く希望してた場所へと向かうことにした次第だ。

まずは熊野三山の奥宮とも称される玉置神社。世界遺産「紀伊半島の霊場とその参詣道」のひとつである。僕らが“紀伊半島のチベット”と呼ぶ瀞峡・田戸のさらに奥に位置する神社で、本宮から大峯奥駈道で徒歩8時間の場所にある。さすがに一年で最も昼間が短い冬至間近に家族連れで8時間(往復15時間!)は辛いので(いつかはMasaと踏破したいと思ってるけど...)今回はクルマで向かったわけなんだけど、クルマでもまぁホント呆れるほどに遠い!玉置神社は悪魔退散(!)が一番のご利益という凄い神社で昔から『玉置の神様は怖い神様なので、招かざる者は容赦なく拒む』などと云われていて、4度もここを目指したのにことごとく気象現象や事故で到達できなかった人もあるとか。


白蛇のような宮川の川霧

本宮辻(大峯奥駈道)

R42小坂トンネル手前から右折し、延々と続く1.5車線のワインディングロードに運転してる僕以外全員が車酔い(涙)。『ううっ、もう限界!』『ヤバイよ、もう出る!』などという不吉な呻き声を響かせながら落石だらけの道を進み、何とか我が家は一度目で到着(笑)。

駐車場から本殿までは約20分の道のりで、さすがに人影はほとんどない。鳥居をくぐり平凡な檜の森を削った砂利道をしばらく進む。僕らの左手は熊野川上流域独特の直径数十cmの楕円形を積み重ねたような岩壁が立ちはだかる。枕状溶岩*1と呼ばれる火山岩である(天然記念物に指定されている)。

*1枕状溶岩(=pillow lava)
海底火山からパホイホイ溶岩(ハワイなどマグマ中のケイ酸成分が少なくサラサラした玄武岩質の溶岩のこと。これが冷えて固まると、表面がツルツルして丸みを帯び、波板トタンや縄縄文式土器のような模様が見られる。語源はハワイの古い言葉。)が水中に噴出した場合、液体で噴出する溶岩は海中での表面張力の働きで丸くなる。しかも周りの海水に接した部分だけが急激に冷やされることで、まるでカニクリームコロッケのように表面はパリっと中身はドロっと固まるのだ。これで溶岩の噴出が止まればまん丸な石が出来て、はいおしまい!なんだけど、溶岩どんどんと噴出し、コロッケのサクサク部分の一部を突き破ってマヨネーズみたくチュルチュル〜とはみ出す...こんなわけでソバ枕のような溶岩が出来るのだ。

かつてここが海底火山だったことを示す枕状溶岩

上:玉置山参道を進む 下:いよいよ境内へ

つまり、ここ玉置山は今でこそ標高1000mを超える紀伊山地の山奥だけど、かつては海の底だったということか?太平洋プレートだかなんだかに乗って海底火山活動が盛んな地域から隆起しつつ運ばれてきた何よりの証拠なのだ。

ここでMasaが一言。『そうかぁ、玉置山はこの楕円形の“玉”を“置いた”山だから玉置山なんだな。現代のオレたちでさえこれが溶岩で自然の造形だとは解っていても不思議な形だなぁって思うんだから、昔の人はもっとびっくりして神様が作った岩だと思ったかもしれないよなぁ。』

ナルホド!玉が置いてある山だから玉置山...たぶんそれ当たってるよ。


枕状溶岩を抱くように生える杉の巨木

鳥居が設えられた枕状溶岩の壁を横目に参道をさらに進むと、玉置神社と書かれた幟が立ち並ぶ下りの石段に差し掛かる。
この辺りから参道の両側の木々が急に太く大きくなり、神域に入ったことを感じさせてくれる。玉置神社はさっきMasaが気づいたように、枕状溶岩の玉石を崇める「磐座信仰」の聖地なんだけど、境内には屋久杉に勝るとも劣らない樹齢1000〜3000年級の巨杉が何本も立ち並ぶ「巨木信仰」の場でもある。
そんな中でも特にすごいのは「大杉」。人の目に触れない山奥にあるとか製材するのに適さないからという理由で放置されたことで生き残った屋久島の「縄文杉」などの異形の杉とは違い、伸びやかに天を突くようにそそり立つその端正な姿は感動的ですらある。杉が成長するのに平地の10倍の時間を要するといわれる1000mを超える高所、しかも堅い溶岩の岩盤を50cm程度の土が覆う地質という植物が生育するのに決して良いとはいえない環境の中で黒潮から湧き立つ水蒸気がダイレクトにぶつかることで頻繁に発生する雷に打たれることもなくこのように立派に生き続けている巨木たち...僕らはその生命力と幸運にあやかろうと根を痛めないように注意しながら「大杉」に近づき、ペタペタと触ってみる。“気”に敏感ではない僕は何かが聞こえるとか見えるとかはない(笑)けど、何となくゾクゾクする感じを覚えるのは確かである。


樹齢1000年とも言われる天然記念物「大杉」
もちろん奈良県最大の杉である

上:根を踏まないように触れてみる
下:玉置神社の本殿が姿を現す!

「大杉」に触れた後は、端正な造りの石段を上って本殿へ。本殿に掲げられている神社の紋は“洲濱”。これは海岸に面した浜辺にできる島形洲(三角州)を象った紋で、熊野川河口の浜そっくりである。こんな山奥に磯の紋ってのはとても変な気がするけど、僕の印象ではこれは洲濱ではなく枕状溶岩が積み重なった様子を象っているのではないか?って気がする。

拍手を打ってお参りした後は本殿の裏手にある「夫婦杉」と「神代杉」を見に行く。 中でもひときわ存在感を感じさせるのが「神代杉」で、高さは28mとそれほど高くはなく、太さも幹回りが8.4mと他の杉にくらべて太いわけではないのだけれど、端正な「大杉」とは対極にある異型の巨木ならではの迫力に圧倒される。推定樹齢は3000年ということで日本でいえば縄文時代、外国ではソロモン王とシバ女王の時代から静かにこの世の中を見つめていることになる。


境内は巨木の宝庫

本殿から山頂を目指す

本殿に参拝した後は、大峯奥駈道を歩いて神社の後方にそびえる玉置山(1076m)への“なんちゃって”登山を楽しむ。ま、20分ほどの山歩きが登山と言えるかどうかはともかく、本殿から社務所前を経て三柱神社の前を通ると、鳥居から山頂に向かう道が伸びている。太い杉に囲まれた割と急峻な登山道を登っていくと、鬱蒼とした暗い森の中に周囲を垣で囲まれた特別な感じのする三本の杉の木が現れる。これが熊野の「花の窟(はなのいわや)」新宮・神倉神社の「ゴトビキ岩」と並ぶ熊野三大磐座信仰の一つである「玉石」が鎮座する玉石社だ。杉の木の根元には白い玉砂利が敷きつめられ、そのなかにほんの少しだけ地表に顔を覗かせるのがご神体の玉石。あまりの小ささに驚くけど、この石、実は地中にどれだけ埋もれているのかわからないほど大きいといわれているそうだ。


玉置山のご神体がある玉石神社

ここも大峯奥駈道なのだ

玉石社からほんの5分で玉置山に登頂した後は往路をそのまま引き返し、玉置神社から駐車場へは裏参道を進む。本殿の裏手を進むこの道沿いにも「磐余杉(ゆわれすぎ)」や「常立杉(とこたちすぎ)」などの巨木が立ち並び、しばらくすると往路の参道と合流し、駐車場へと至る。これにて玉置神社参拝と玉置山“なんちゃって”登山は無事終了。OUTBACKに乗り込んで次なる目的地・新宮を目指す。


玉置山(1074m)登頂!

我が家にとって紀伊半島の最深部は瀞峡・田戸だったんだけど、玉置神社から下ってくると田戸が立派な集落に、田戸から志古への山道が、立派な幹線道路に見えるのが妙に可笑しい。田戸からの狭い山道は北山川ダウンリバーでいつもドキドキしながら走ってるけど、ダッちゃんだと狭く感じるのに全幅1790mmしかないOUTBACKだと広々した感じで余裕たっぷり!2050mmのダッちゃんとは26cmしか違わないはずだけど、この道でその差はすごく大きくて時折現れる10tダンプとの対向も鼻歌混じりだ。“井の中の蛙大海を知らず”だっけ?何となく意味というか状況が反対のような気もするけど(笑)、とにかく我が家にとって、玉置神社へのドライブはまさに“PLUS ULTRA” *2な体験だったのである。

*2PLUS ULTRA
スペイン王家の紋章にある文字。「さらに彼方へ」という意味のラテン語。1492年コロンブスによって新大陸が発見されるまで、欧州の人々にとってジブラルタル海峡が世界の果ての地と信じられていた。それまでスペイン王家の紋章には「NE PLUS ULTRA」(この先はなし)という文字が書かれていたが、その先には新世界が広がっていることが分かり、王家はその紋章から、否定詞の「NE」をとり「PLUS ULTRA」とした。
 


神 倉 神 社

そんなわけで北山川&熊野川の澄んだ流れを楽しみつつ楽々と新宮へと下った僕らは、世界遺産・神倉神社へと向かう。新宮市北西部・熊野川と市街地を分けるようにそびえる千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま)の山腹・標高80メートルほどの場所にあり、これまで数え切れないほど新宮を訪れている我が家だけど、そこに到る道路の狭さゆえ(ダッちゃんやCasitaを牽引したDiscoじゃ絶対進入不可能)、今日が初めての参詣となる。


延々と続く583段の乱積み
石段は意外と歩きやすい

上:朱塗りの鳥居をくぐって山内へ
下:緑の森の先に朱色が見えてきた

超有名な話なので詳細は省略するけど、熊野川の畔に建つ熊野速玉大社を“新宮”と呼ぶのは、何も熊野三山で一番新しい神社だからではなく(逆に一番歴史が古く格式が高いらしい)、ここ神倉神社から遷宮されたから、川の畔の社を “新”宮と呼ぶのだそうである。つまり今は神倉神社は速玉大社の摂社という位置づけだけど、実は熊野三山の大元締めはココということである。


整然と並ぶ朱塗りの玉垣

クジラのように見えるゴトビキ岩(=ガマガエル)

最近新設されたという観光客用の駐車場にOUTBACKを停め、朱塗りの橋を渡って境内へと進む。鳥居の先は実に趣きのある急勾配の石段。大門坂や那智大社の参道にも見られる典型的な「鎌倉積み」手法の石段は538段あり、源平合戦の熊野水軍の功労に対し1193年に源頼朝が寄進したものである。石段の下に立つとその急勾配と鎌倉積みというエネルギッシュな鎌倉文化を象徴する乱積みの迫力に圧倒されるけど、実はこれだけの勾配がある場合に整然とした石段ではもっと急に感じるものだし、一見歩きにくそうに見える鎌倉積みが一段一段意識して歩くことを求めることで逆に安全だったりするわけで、古の人々の配慮に感心する。


速玉大社が新宮と呼ばれるのはここが旧宮だから

石段を上がると朱塗りの玉垣が続く石畳の参道の先に神倉神社の、そして熊野磐座信仰の象徴であるゴトビキ岩が見えてくる。ゴトビキ...すなわちガマガエルという名の大岩の下には小さな社があって、僕らと同年代の女性が一心不乱に呪文みたいなのを唱えている。『あ、あの人って玉置神社にも居た!』Azuが呟く。すげぇ観察力!


モスグリーンの森がいかにも紀州っぽい

こんな玉石が随所に 

 


浮 島 の 森

神倉神社に参拝した後は2001年の熊野川カヌーマラソンの帰り道に立ち寄った浮島の森へ。
島全体と島が浮かぶ沼池の底が植物遺体に由来する泥炭で出来ており、(千穂ヶ峯の地下を透過した熊野川由来の豊富な湧水のために、沼内で枯死した植物の遺体はその冷たい水のせいで腐敗することなく泥炭化したと考えられる)それらがマットのように積み重なったことで出来た日本最大の浮島で、「雨月物語」の一編「蛇性の婬」のモデルになった場所である。


市街地の真ん中に突然現れる亜熱帯風の池

揺れる浮桟橋を渡って浮島へ

今は南端が沼の底に座礁しているけれど、以前は風が吹くと沼の中をあちこち動き回ったそうで(笑)、今でも遊歩道を歩くと水面が波立つのが確認できる。MamaとAzuは初めての浮島の森ということで、南方系と北方系の植物が混生する不思議な森を歩き、しばしの探検気分を味わうことが出来て楽しかったようである。


歩くと明らかに揺れる浮島

そして夜は海山で忘年会!

浮島の森を出ると時刻はもう16:00.R42を北上して急いでキャンプinn海山へと向かう。夜はNESSYさん、アキヒロ家、マジコ家とともにキャンプinn海山のコテージを借りてキャンプ場ご自慢のご当地鍋セットフルコース(獅子鍋、地鶏鍋、ふぐ鍋)、そして焼渡利牡蠣に舌鼓な忘年会!いつもながら宴会の様子をここに書くことは控えるけど、子供たちが中学生になってからは予定がなかなか合わず、みんなで集まるのは本当に久しぶりってことで、とても楽しい時間を過ごすことが出来たのだった。

 


 

熊野古道・始神峠トレッキング


三浦海岸駐車場に勢揃い

昨夜は宴会が盛り上がってついつい夜更ししてしまい就寝が2時前だったので、今朝は少しゆっくり寝て8時起床。3つの土鍋にお米を放り込んでメチャウマの雑炊の朝食を戴き、続けて10時のティータイムまで楽しむ。夏のキャンプは遊びに忙しく、こうしてキャンプサイトでのんびり過ごすことなんてまずないけど、特に何をするわけでもない冬のキャンプはのんびりまったりできて良いものである。

のんびりしているうちに時間は刻々と過ぎ、11:00ギリギリにキャンプinn海山をチェックアウト。ここで今夜京都へライブを聴きに行くために帰宅するマジコ家、昨日に続いて熊野灘へイカ釣りに出かけるNESSYさんとはお別れである。残された我が家とアキヒロ家は思いつきで熊野古道でも歩こうかってことで、急遽キャンプ場でガイドマップをいただき、熊野古道伊勢路で一番のお気楽コースである始神峠へのトレッキングに出発する。


Masa&Kouのザックがお揃い

ママたちの靴がお揃い

パパたちのキャップが色違い

R42を少し北上し、宮川第ニ発電所がある三浦海岸の立派なパーキングスペースに2台のSUBARUを停め、トレッキングの準備。

『わぁ、何?一緒や〜ん!』アキヒロ家の奥様イズミちゃんが叫ぶ。見るとジェットバッグから下ろしたイズミちゃんのトレッキングシューズがともちゃんのと同じSCARPAゼログラビティ10GTXレディス!(同モデル&同色)『おい、まさみち!ザック同じちゃうのん?』Kouの声に振り返るとMasaとKouのザックがBergans HELIUM 30のおソロ!『それを言うならオレたちも一緒だぜ。』アキヒロさんと僕のフリースキャップも色違いのmont-bell(笑)。お互い相談したわけでもないのに、それぞれ同じモノを同じショップで違うタイミングで買ってたのには笑ってしまう。


紅葉の木橋でハイチーズ!
涸沢を渡る木橋がとても多い

上:始神峠・江戸道をスタート
下:穏やかな陽光に包まれる森

まずは駐車場から始神峠コチラの看板に沿って左手の山裾を辿る。発電所の脇を抜けてしばらくすると始神峠の立派な看板があり、このコースが江戸道と呼ばれる旧道であることなど峠道の概要を勉強して、いよいよ森の中へと進む。このルートは近年整備されたものなのか、蛇行する涸沢に渡した真新しい木橋を何度も渡り、比較的若い檜木立の中の伸びる道は穏やかな散歩道という感じだ。地面に敷き詰められたように落ちた紅葉の木橋を渡ると、そこからはいよいよつづら折れの峠道の区間に入るけど、始神峠の最高点でさえ標高147mでしかないわけで、息が上がったり汗ばんだりとは無縁の快適なトレッキングである。途中、一部に古道の石畳も残っていて、雨水が路面に滞水するのを防ぐ「洗い越し」も確認できて熊野古道っぽい雰囲気も十分に味わうことが出来る。おしゃべりを楽しみながら歩いていると、あっという間に始神峠に到着。


Azuのごろごろ水入り瓢箪型PETボトルがお茶目

始神峠から望む紀伊松島の絶景

熊野古道は元来、熊野詣のための参詣道であって、実用本位...つまり悪天候でも通行不可にならない安全かつ楽チンなルート選びがなされているために、風の強い尾根を通ることはまずないので決して眺望が良いわけではない。でも、ここ始神峠からの眺望は抜群で、三浦海岸から高塚山越に紀伊長島湾に連なるように浮かぶ「紀伊松島」の絶景を一望できる。


眼下にスタート地点の三浦海岸と紀伊松島の連なる小島を望む

僕らはそんな素晴らしい眺めを楽しみながら、峠の茶屋跡の広場に設えられたピクニックテーブルを使わせてもらってランチタイムとする。数年前、MasaやKouが小学生だった頃は毎月のように山登りやカヌーをご一緒させていただいてたアキヒロ家だけど、息子たちが中学になってクラブが忙しくなり、またお父さんたちも仕事がキツくなったこともあって、こうして一緒に山で過ごすのは2年ぶりのこと。この二年間にそれぞれの家族で楽しんだ山の話や学校ネタなど、話は尽きない。


峠は明るい雰囲気の広葉樹林

峠に設えられたピクニックテーブルでランチ


始神峠(標高147m)

1時間ほどを峠でのんびり過ごした後、僕らはR42の北側へと伸びる明治道で下山を開始する。由緒正しい熊野古道である江戸道とは違って、明治道は現在の国道が出来るまでは紀州への唯一のルートとしての生活道路であり、荷車が往来できるほどに幅が広く、また傾斜も緩やかだ。(近年までこの地域は陸路よりも海路が便利だったので、物資の輸送は主に海路で行われていたのだが...)


帰りは明治道へと進む

可愛い実を拾って喜ぶAzu&Moe

路面はとても歩きやすい明治道だけど、自然に最小限の手を加えて作られた登山道のような江戸道とは違い、崖と呼んでも差し支えないような急峻な斜面を削り、谷側に高々と石垣を積んで作った明治道は何となく無理やりに通した道ってな印象。実際山側の崖は所々で崩壊し、明治の土木技術の粋を集めた石垣も土砂が抜けている部分があって、自然に逆らわず共生しようとした江戸時代と欧米に倣いひたすら自然を征服しようとチャレンジを始めた明治時代というふたつの時代を象徴しているような感じで興味深いコントラストを見せる。


宮川第ニ発電所の巨大な導水管を越えて進む

古道っぽくはないけど良い雰囲気の散策路

そうは言っても、明治20年代に築かれた石垣はすでに自然の中にあっても違和感がないほどに古びていて、峠からしばく続く雑木林は山側からせり出した木々が色付き、まるで紅葉のトンネルの中を行くような素敵な遊歩道になっている。見事なシダの大群生を抜けて木漏れ日の中をさらに進むと目の前に巨大な銀色のパイプが姿を現す。僕らのホームリバー・宮川の上流にある宮川ダムから発電用に水を引くための導水管である。


 シダの大群生が亜熱帯に近い温帯って感じ

『こいつのせいで宮川の水がないんだよなぁ〜!』昭和という時代を象徴する醜い構造物を憎々しい気持ちで渡り、僕は熊野古道が世界遺産に認定されたことの意味を考える。時が経って古くなってもボロくなるばかりで決してアンティークにはならない昭和。もちろん江戸時代のままでこの国が国際社会を生き抜くことが出来たとは思わないし、明治維新は必然であったのは否定しない。でも、明治の時代を生きた人々がそれ以前の日本文化の素晴らしさを少しでも理解していたら、固有の文化を忘れ、天皇家の祭礼さえもでっち上げ(○○の儀ってのはほとんどが明治以降の創作であるらしい)、神仏分離の愚行や美しい武士道の精神を捨て去ることはなかったのではないか?日本は、そして日本人は経済は一流だけど文化や感性は二流の国という他国から尊敬されない情けない国へと堕ちることはなかったのではないか?と残念でならない。何を以って“先進”国なのか?全国ミニ東京化が進む平成の今、少しだけ立ち止まって考えるべきだと思うのである。


海が近い。ゴールは間もなくだ。

始神峠の後は大内山動物園へ

考えさせられることが多い動物園の後は...

阿曽温泉でフハァ〜!&温泉卓球

ま、難しい話はともかく、こんな調子で江戸道〜始神峠〜明治道と馬蹄形に続く三浦海岸側の稜線を一周した僕らは三浦温泉ゆーゆー館の裏手を回って三浦海岸駐車場までの約4kmの快適トレッキングを楽しみ、R42を渡ってゴール。トレッキングを終えた後は、大内山動物園で動物を飼うということはどういうことなのか?を学び、大内山牛乳のショップでシュ−クリ−ムを買い、阿曽温泉で身体を暖めるという久々の“R42フルコース”を楽しんで帰宅した。

12月後半になっても風対策さえ怠らなければ普段着でもポカポカ暖かく山歩きが楽しめる紀伊半島。厳密に言えば冬がないこの地はやっぱり野遊び天国だよなぁ...僕らはそんなことを話しつつ伊勢道を北上、ちーちょとうりが待つ自宅への道を急いだ。

 


 

 

 December.2006 MENU

 

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