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 August.2006 part.4

 

 

 

  


大峯奥駈道をゆく

8月30日 山上ケ岳登山&大峯奥駈道

大峯奥駈道 mission.3

Masaが14歳になった今年の7月末、僕の頭にある山のことが浮かんだ。
そのある山とは大峯山。今ではあまり聞かなくなったけれど、戦前はこの地方には「十五詣」という決まりがあった。「十五詣」とは、数え年で15歳になった男子が元服の習わしとして大峯山に行に出る習慣で、現在70代のお爺さんたちの口からその当時の思い出話を聞く機会も多い。
もちろん、行に出ることで人生の厳しさとか、本当の恐怖とかを体験させるという大義名分もあったけれど、実のところ、大峯山の麓に栄えていた花街...今の洞川温泉で、「男になる」のが本当の目的だったらしい(笑)。さすがに実の親父がMasaを「男にさせる」わけにはいかないけど、昔の習わしに従って“硬派な”「十五詣」をやってみよう...そんな風に思った次第だ。
(ちなみに関西では「十三詣」として12歳で大峯に入るそうだ。都会は大人になるのも少し早いのかな?...笑)

親戚のオジサンによれば、毎日が苦行のような生活だった昔の少年たちは、色気ででも釣らないとそんな馬鹿げた苦行に進んで参加する者はいなかったそうだけど、満ち足りた生活を送る現代の14歳は、誘えばホイホイ付いて来る(笑)。しかも先日から取組んでいる自由研究『熊野と出羽、ふたつの三山』のフィールドワークとしても魅力的となれば、なおさらである。

さて、この“大峯山”なんだけど、実はどれだけ地図を探してもそんな名前の山はなく、紀伊山地の中央を南北に貫く全長およそ150kmほどの山脈全体を指して“大峯山脈”と呼ぶ。その山脈全体が修験道の聖地なのである。でも昔から一般的には大峯山といえば山上ヶ岳(古名・金峯山_きんぷせん)のこと。今もなお山上ヶ岳は修験道の聖地として日本で唯一「女人禁制」を頑なに守っている山であるのだ。
夏休みも残すところあと2日。一週間後にピアノの発表会を控えたAzuとその母親はお出かけ出来ない状況で、「女人禁制」の山に登るには、最高のタイミングなのである。


清浄大橋を渡っていよいよ大峯へ

女人結界を越える

そんなわけで、5:30起床で6:00出発。R165で一路、山上ケ岳登山口である天川村・洞川温泉を目指す。途中、コンビニで昼食や飲み物を買い込んで、8:00に登山口駐車場に到着する。
着替えと装備の点検(今日はMamaから“夕飯もふたりで済ませてきてね!”と言われてて時間の許す限り距離を歩くつもりなので、フリーズドライ、ツェルトまでのフル装備だ)

9:00、清浄大橋を渡って表参道に入る。
100mほどで江戸時代の関所にも似た冠木門(かぶきもん)があり傍らに“從是女人結界”と女人結界を告げる古い石碑が立つ。良く手入れされた杉の美林に伸びる階段道を10分ほど登ると一ノ世茶屋に着く...はずなのだが、どこでどう道を間違えたのか茶屋の建物は見当たらない。


杉の美林を歩く

無人の一本松茶屋に到着

さらに30分ほど登り続けると、ようやく茶屋の建物が見えて来る...一本松茶屋である(9:40)。
茶屋といっても水曜日の今日は休業で人影はない。茶屋は“元祖ドライブスルー”のような造りで登山道を覆うアーケードになっていて、道の右側が店、左が縁台を並べた休憩スペースである。


山上ケ岳の花期は終わっているだけに、時折見つかる花が余計に美しい

まだ登り始めて間もないのでここは素通り。茶屋を出ると、登山道の先から早くも下山して来る行者姿の3人と出会う。
「よおまいり」「よおまいり」
声を掛け合う。大峯では昔から登山者も行者も山に入れば「峯入り」と呼ばれる行に入ることを意味するので全く貴賎や上下はないことになっている。そんなわけで、すれ違う人々は皆「よおまいり」(ようお参り=良くお参りになられました)と声を掛けてくるのだ。相手が山伏姿の行者だとスッとその言葉が出るけれど、僕らと同じ登山者の人だと思わず「こんにちは」と言ってしまいそうになる(笑)。


お助け水で喉を潤す

突然ブナ林に入る

始めは巻舌で日本人同士が“グッモーニン、エブリワン!”などと挨拶しあってるような恥ずかしさを感じるけど、この言葉を繰り返して言ううちに、ここが他とは違う特別な山であることを実感することができるのも事実なのである。前夜かなり雨が降ったのだろうか?道はかなり濡れていたけれど、登山道にしては道幅が広く、滑りやすい場所には必ず丸太の階段が設けられてとても歩き易く濡れた道も全く苦にならない。

一本松茶屋から吉野杉の森を20分ほど歩くと「役之行者慈悲之助水」と刻まれた石碑が建つ「お助けの水」と呼ばれる水場に到着する(10:00)。登山口から初めての水場ということで、お賽銭を賽銭箱に投げ入れて祠の中の岩の裂目から湧き出す水で喉を潤す。うまいっ!これは川の水ではなく、鉱泉の味だ。

お助けの水からは、驚くほど唐突に杉林が美しいブナ林に変わる。モニターの1670万色ではとても表現出来ない緑の氾濫...実に豊かなブナ林だ。交互に現れる気持ちの良い優しげな印象のブナ林と手入れの行き届いた凛とした吉野杉の美林を楽しみながら洞辻茶屋まで約30分、登山道は大峯奥駈道と合流する(10:30)。


洞辻茶屋で奥駈道と合流

とてもわかりやすい標識がある

茶屋を抜けたところに大きな出迎不動が立ち、その横は芝生のような草地になっている。これまでの上りばかりの道とは打って変わって、ここからの大峯奥駈道は小さなアップダウンを繰り返す歩きやすい尾根道。
しばらく僕がこれまでに見た中で文句なく一番!のブナ林(屋久島よりも、白神山地よりも!)を楽しんでいると20分ほどで立ち並ぶ陀羅助丸茶屋を通り抜ける。


ブナ林に立つヒノキの古木が色鮮やか

陀羅尼助丸とは大峯独自の胃腸薬で、かつて役行者が人々を疫病から救うため黄柏の皮を剥いで煎じ薬としたことが始まりといわれている。役行者は従者の後鬼にその製法を伝授し、後鬼の子孫である洞川の人々によって現在もその当時のレシピで作られていて、これがもうメッチャ効くのだ(我が家の常備薬)。今回もMamaからお土産にこの陀羅尼助丸を買って来るように頼まれていて出来ればここで買いたかったけど、今日は全て休業で断念(涙)。

(ちなみに陀羅助丸は、ここ大峯(洞川と吉野)ともう一カ所、高野山でも売られている。大峯は役行者のレシピ、高野山は弘法大師のレシピなのだとか...)


ヒノキの根が素晴らしいフォルムを見せる

いよいよ表行場へ。(油こぼし岩の鎖場)

洞辻茶屋から稜線の奥駈道を進むと紀伊半島の高山特有の植生...つまりブナ林の中にトウヒ、ウラジロモミが混じり始める。供養碑が立ち並ぶ急登を過ぎ、ジグザグの長い木梯子を登り切ると「油こぼし」と呼ばれる小鐘掛岩の岩場に着く。いよいよ表行場の始まりだ。

油こぼしの10mほどの岩場には鎖が垂れ下がり、行場気分が盛り上がる。ただしこの場所は必ずしも鎖に掴まる必要はない程度の斜度で、実際Masaは鎖を使わずに登り切ってしまった。


廃道になった階段。

亀石に絡みつく木の根

 


霧に煙る奥駈道の幻想的な雰囲気

岩場を登り切るといきなり巨大な岩塊...鐘掛岩が目前にそびえる(11:07)。
鐘掛岩の名は役行者が駿河の長徳寺という寺で布施を求めた時に、和尚がそれまでとは打って変わって施しを断り、まさか巨大な釣鐘は運べまいと「施しは出来ないが、あの釣鐘で良ければ布施として持って行けばよい」と告げたのだそうだ。すると突然釣鐘が鐘楼から外れ、轟音とともに大和の大峯山に向かって空を飛び去り、山上ヶ岳の鐘掛岩に架かったという伝説に由来する(笑)。


鐘掛岩へ登攀

鐘掛岩をみあげるMasa

鐘掛岩の高さは約25m。頂上付近は霧にかすみ、僕らの実力と今日の装備で登るのはリスクが大き過ぎる(たぶん3回に1回は滑落するだろうなぁ)ので、鎖&オーバーハングの“正式な”ルートを避け、比較的容易な迂回ルートを選び岩に登頂する(やっぱり登ってるやん!)。霧で視界が奪われ眺望は全く良くないものの、頂の縁に立ってもさほど怖くないのがありがたい(笑)。岩の裏側には鎖が垂れ下がった下岩路が設けられていて、下りの恐怖を感じなくていいのはもっとありがたい(爆笑)。


鐘掛岩の頂上にて

岩の縁から下を覗く

鐘掛岩から下りてさらに尾根道を進むと「お亀石」や等覚門があり、霧に霞む「西の覗」や「鷹巣岩」を眺めつつゴジラの背中のような岩肌の続く緩やかなアップダウンを進むと右「西の覗」の標識が眼に入る(11:20)。


こんな岩肌のため雨上がりでも
滑ることはまずなかった

等覚門へと進む
石碑の立ち並ぶ岩場を進む

TVや雑誌で大峯の行場といえば、必ず出て来るのがここ「西の覗」。ほぼ垂直に切り立った約300mの絶壁で、命綱を介添役のふたりの山伏に託して両腕を一本のロープの輪に、そしてもう一本のロープを腰に通して、腹這いになって崖の縁に進み、身体を宙づりにしたまま真直ぐ伸ばした手で合掌し、奉行役...つまり裁判官である山伏の問いに正しく答えなければ、少しづつロープを緩められるという恐ろしい「捨身の行」だ。


鞍部から西の覗きを望む

西の覗きの注意書き

もし一般の僕らも体験できるようなら、きっとMasaはやりたいと言い出すだろうし、無事やり終えた後は必ず僕にも同じことをするように求めるだろうなぁ...生まれて初めて息子の前で涙を流しながら許しを請うことになるのかも?とドキドキしながら「西の覗」に着くと、残念ながら...ではなく幸いにもロープを掛けて覗き岩から突き出す「突き出し屋さん」の姿が見えず(*現在は勝手にこの行を行う事は禁じられている)、とりあえず崖の縁まで進んでビミョーな笑顔で写真を撮りっこして「西の覗」を後にした。

 

西の覗きでビミョーな薄笑いをうかべるMasa

「西の覗」から宿坊への鞍部には峯入記念の石碑が林立する。役行者が熊野から吉野へ峯入りする順峰(じゅんぶ)を三十三度、吉野から熊野へ峯入りする逆峰(ぎゃくぶ)を三十三度、合計六十六度の峯入修行を行なったことからだろうか?大半の石碑は三十三度の峯入記念と刻まれていた。


庭園のように美しい森

一面苔に覆われている

ま、奥駈道140kmを33回も歩く人もすごいけど、それ以上に、この場所まで数tもの巨大な石碑を運び込む方がアンビリーバボーで、運搬車じゃ何日掛かるんだろ?ヘリかな、やっぱ?とかそんなことばかり考えてしまった。
案内看板を右に進み、咲き誇るトリカブトの青い花に目を奪われつつ、さらに5分ほど歩くと正面に鳥居が見える。(11:50)『大峯山寺』の巨大な寺標が建つ妙覚門をくぐる。


参道脇に咲き誇るトリカブト


山上本堂山門

本堂が見えてきた

門から坂の上を見上げると、緩やかな石段の先に大峯山寺本堂の屋根が見えて来た。
11:50大峯山寺本堂到着。
17世紀に建立された本堂は当然ながら日本一高所にある重要文化財で、グレーの瓦に白木の建物で一見地味な印象だけど、良く見ると梁や壁に朱の痕が残っていて、僕は目を閉じて創建当時のきらびやかな姿を想像してみる。本堂の内部は土間になっていて靴を履いたままで土足で足を踏み入れることができる。堂内は表の四カ所の扉以外は全て閉じられていて、しかもロウソクの灯かりのみなので非常に暗く、それが実に神秘的な雰囲気が漂わせている。


山上本堂。日本一高い場所に建つ重要文化財

中央に金剛蔵王権現、右に役行者が祀られ、左奥には重文の梵鐘がある。この梵鐘はさきほど書いた駿河から飛んできて鐘掛岩に引っ掛かったという例の梵鐘である。梵鐘には「長福寺鐘、天慶七年(たぶん945年)」の刻銘があり、ま、鐘が飛んだってのはともかく、さきほどの伝説と符合するのも事実である。(ま、この鐘の存在があって伝説が後から作られたんだろうけど)

大峯山寺の神秘的な、でもとてもなぜか落ち着く空間を味わった僕らは、一応登山ということで山上ヶ岳頂上を目指す。山上ヶ岳の山頂は大峯山寺社務所の脇を少し登った場所にある。


お参りの後山頂を目指す

立ち枯れのトウヒと熊笹の生い茂る登山道

山頂付近はそれまでの険しい岩肌やブナの原生林とは全く違う、とても穏やかな一面ヒメザサが生い茂る平原で、「お花畑」という看板が示す通り花の季節には可憐な花が咲き誇るのだろう。
膝下程度のヒメザサを掻き分けるようにはっきりしない稜線を進むと、左手の深い霧が突然晴れて、稲村ヶ岳と特徴的なピークを持つ鋭鋒・大日山がくっきりとその姿を現す。左側にあるはずの去年登った弥山と八経ヶ岳の姿は残念ながら霧に隠されて見えなかったけれど、それまで山上からの眺望が一切なかっただけに、このつかの間の眺望は神々しささえ感じる瞬間だった。


一瞬霧が晴れ大日山の鋭鋒が姿を現す

山上ヶ岳山頂(1719m)湧出岩がある

山上ヶ岳の三角点はとても判り辛い林の中にあり、登山者も三角点まで足を運ぶことは少ないのだろうか?(お花畑に『山上ヶ岳1919m』という、ここがあたかも山頂であるかのような看板があることも影響しているのか?)ヒメザサが生い茂る中、お花畑から延びる辛うじて判別できるようなるけものみちを進む。山頂には小さな一等三角点。そのすぐそばには玉垣で囲まれた禁足地に湧出岩と呼ばれる岩がある。この岩は役行者が仏の降臨を願い一心に祈り続けたところ、釈迦如来、弥勒菩薩、金剛蔵王権現の三仏がこの岩から湧き出したと伝えられる岩である。


息を飲むような美しい森を下る

山頂でしばらく過ごした後、僕らは森の中を通って本堂に戻り、妙覚門をくぐり宿坊の立ち並ぶ場所へと山を下る。(宿坊とはその名の通り宿泊できるお堂のことで、大峯山寺の輪番を勤める5つの寺が修験者のために宿坊を営んでいる。)本堂で裏行場について尋ねたところ、裏行場は表行場よりも険しく危険なので、必ず案内人の同行のもとで行場に入って下さいとのこと。どの宿坊でも予約なしで案内していただけるらしいので、一番本堂寄りに立つ宿坊「喜蔵院」に飛び込んで、案内を請うことにする。


坂を下って門外へ

宿坊・喜蔵院にて裏行場の案内をお願いする

ザックを宿坊に預かってもらい、身軽になった僕らはジーンズにゴム長というラフなスタイルで僕らを先導してくれる案内人さんに付いて裏行場へ。僕は案内人さんの気軽な雰囲気から、てっきり観光客用に行場を見学する別ルートがあって行場を見上げながらガイドしていただくだけなのかと思ってたんだけど、実際には、スタート3分後にいきなり垂直にそそり立つ「不動登り岩」に張り付いてよじ登る羽目に陥る。


えっ?見学じゃなく実際に行するの?

深く暗い洞窟を抜け、俗の煩悩を振り払い神仏の子として生まれ変わることを象徴する「胎内潜り」(出口で三人揃って“オギャー!オギャー!”と産声を真似る...息子の前ではチト恥ずかしい)に始まり、1m幅ほどでそそり立つ岩の割れ目の両側に両手両足を突っ張ってスパイダーマンよろしく登る「おしわけ岩」などいくつかの岩場を経て鏡岩の前へ。

苦行の果てに辿り着いた者には心の中が映し出されるという鏡岩。『鏡岩には何が映っていますか?』案内人の方にこんなを質問されて戸惑う僕だ。
大岩は表面がゴツゴツしたただの岩だし何も映るはずはないよなぁ...そんな思いで眺めていると、突然騙し絵のように岩の表面に“ある”陰影が浮かび上がる。
“あるもの”が何かは秘密だけど(笑)。

でも、その“あるもの”が何かを案内人さんに告げると、『そうですか。良かったですね、いいものが見えて。』とニッコリ微笑まれた。


おしわけ岩をスパイダーマンのように急登

完全なロッククライミング地下足袋が一番良さそう

どうやら僕の見たものは良い兆候を示すものらしいけど、案内人さんに心の中を見透かされたような気恥ずかしさを感じた。

鏡岩の隣にある賽の河原で祈りを込めて石を積んだ後は、いよいよ裏行場の核心部分へと入る。
古来より死者行方不明者数知れずという「蟻の戸渡り」から「平等岩廻り」への難所である。
かつて墜落率50%を誇っていた(らしい...泣笑)の飛石岩には今では木橋が掛けられていて安心だけど、「蟻の戸渡り」は赤ペンキで印が付けられていないと見落とすような数cmのスタンス&ホールドの連続(数cmじゃスタンスとは言えないか?)。しかもそれぞれに右足用左足用があり、案内人さんがその都度レクチャーしてくれる足運び、足抜きの順序を良く記憶して忠実に行動に移さないと、すぐに行き詰ってフリーズしてしまう(つまりルートが一通りしかないってこと!)。


平等岩のトラバース足場は3cmほど

ただ登るだけの「蟻の戸渡り」は上だけ見てたらいいので恐怖感はさほどでもないけど、「平等岩廻り」は垂直にそびえる円柱形の岩の回りをトラバースし、しかも一ヶ所で身体を自転させる(つまり岩を背にする瞬間があるってこと!)のだ。トラバースってことはどうしてもスタンスを視認する必要があり、その度に足元の直下150mの樹林が目に入ってしまうということ(涙)。チョー怖い!


賽の河原で祈りを込めて石を積む

当然ながらロッククライミングは素人で加えて極度の高所恐怖症の僕らにはとても辛い作業だけど、案内人さんによれば『普通の人は恐怖のあまり動けなくなったりすぐに鎖に頼ってしまうけど、貴方たちは鎖を使わずに平気で登れるから大したもんです。ここを経験すると人生観が変わるって人が多いけど、貴方たちみたいにホイホイ登ってしまうと案内人としては面白くないんですけどねぇ。』とのこと。褒められたのかけなされたのかワカランけど、まぁ数cmの岩の出っ張りに掛けた指先だけで自分の体重を支え、高さ150mの絶壁にへばりつく体験はたぶん今後の人生でそうないだろうな、と思った。


登り切って笑顔

裏行場見取り図

まぁ、案内人さんの的確な指導のおかげでほとんど鎖を使うことなく平等岩廻りまでの命懸けの行を完遂し、最後に3人で「平等岩廻りて見れば阿古滝の捨てる命も不動くりから」という歌を詠み、「南無神変大菩薩・南無アビラウンケンソワカ」と意味不明ながら真言を唱える。そこから階段を下ると行は終了、本堂の右側に到着した。
案内人さんによれば、普通は1時間足らず掛かるそうだけど、今日の僕らは30分ちょうどの早業で、案内人さんと修験道についてあれこれ教えてもらいながら宿坊「喜蔵院」へと戻る。

「喜蔵院」では休憩させてもらいながら受付の方とおしゃべり。山上ケ岳での生活や修験道のこと、そして開山期間中ここに寝泊まりするからこそ見られる絶景(東は富士山や御岳、西は剣山、北は乗鞍や白山はもちろん、一度立山が見えたこともあるそうだ。もちろん伊勢湾も瀬戸内海も一望だそうだ。)のことなど、興味深い話を色々と聞かせていただいた。


とても居心地の良い空間に、このままここに居続けたいってな感じがあったけど、気が付けば時刻は午後2時。ザックを担いで「喜蔵院」を後にする。裏行場で度胸がついた僕らは「西の覗」に吊り下げられながら笑顔で冗談を言える自信があったけど(ウソウソ!)、残念ながら帰りも「突き出し屋さん」の姿が見えずここでの行は断念。鐘掛岩の下まで長い木の階段が続く下山専用の道(皇太子殿下がこの山に登られた時に作られた平成登山道)を進む。陀羅助丸茶屋までに「十五詣」の親子の行者を2組追い越してしばらくで洞辻茶屋に到着する(14:35)。


無事裏行場での行を終えて下山開始

時折、山伏姿の親子が。「十五参り」か?

まだまだ時間があったので、ここで往路の表参道には下るのではなく吉野へと続く奥駈道に入る。
僕らの後続の行者たちは皆、表参道で清浄大橋方面へ下って行ったのだろうか?奥駈道に全く人影はない。

進むにつれて徐々に霧が濃くなって、前をゆくMasaの姿が消えたり現れたりする。「喜蔵院」のご主人が薦めてくれた通り、奥駈道の両側は素晴らしいブナの原生林。大峯山脈の竜骨である尾根道だけに、軽いアップダウンが続くものの息が乱れるようなキツイ坂はほとんどない。


陀羅尼助丸の出店が立ち並ぶ

洞辻からは登山道を外れ、吉野へと続く奥駈道へ進む

ただ、他の登山者や行者に出会うこともなく、霧が濃い上にずっとそんな美しいブナ林が続いて目に映る光景に変化がないために、時間と距離の感覚が徐々に狂い始める。時間の進み具合がいつもの3倍にも5倍にも感じるのである。自分では1時間以上歩いているつもりなのにいつまでも目印の町石が見当たらず、「蛇腹」という名のフィックスロープがある崖にも到着しない。GPSを見てほんの数百mしか進んでいないことになっている。不審に思って時計を見ると洞辻茶屋からまだ20分しか歩いていないことに気付いて愕然とする。
『何かさぁ、キツネに化かされたってのはこんな感じなんだろうねぇ。』
Masaも同じ感覚を覚えているようだ。たぶん前述の通り変化の少ない道であることと、知らず知らずのうちに出始めた疲れがペースを遅くしているのが主な原因なのだろうけど、こうした感覚のズレが道迷い遭難を引き起こすのだろうな...そんなことを実感する。


霧に包まれる大峯ブナ原生林

休憩中に読書を楽しむ

いつまでも「蛇腹」の崖が現れないので、道の脇に座って下山では最初の休憩を取る。Masaはすかさずザックから修験道の解説書を取り出して読みふける...余裕だな(笑)。15分ほど座ってのんびり過ごしていると、歩いている時には気付かない森の音が聞こえて来る。霧が立ち込め、風はない。でも森全体から生き物の立てるサワサワという音が響く。誰も居ない奥駈道の深い森...何とも言えない畏怖の感覚と共に、生き物の気配や音が恐怖ではなく、あたかも自分の仲間に感じられる瞬間。たぶんこの時、僕は食物連鎖の頂点に立つ地球の支配者の一員から、森を出た裸のサルの一種に戻っていたんだろうな。
休憩ポイントから数分で「蛇腹」に到着。ガイドブックにあるようにフィックスロープが延々と続いているが、ロープに頼るほどの斜度でもない。「蛇腹」の途中でひとりの登山者に出会う。『よおまいり〜』『こんにちは!』挨拶が噛み合わない(笑)。立ち止まって聞けば、今朝早く吉野の奥千本を出発し奥駈道140km踏破を目指すバックパッカーだ。テン場(=テントを張る場所)の情報を訊ねられたけど、この先は行者も多く落ち着いて眠れそうもないので宿坊を勧める。


巨大なブナが根こそぎ倒れている

僕の大好きな森、理想の森

ますます濃くなる霧。道がV字の谷底の様相を呈し始める区間に入ると、森はぐんと暗くなる。でも、感覚的に森に同化してる僕らに焦りの気持ちはなく、間もなくニ少年遭難碑へ。ここで霧の森に突然、実に唐突に陽光が射し始める。陽光が奥駈道に届いた瞬間、それまで平板だった森が一気にメリハリのある明るく瑞々しい森へと変貌する。それまでくすんだ彩度の低い色に塗りつぶされていた道に、木漏れ日の丸い模様が描かれて、気分が明るくなった僕らは、やはり太陽から命を貰っているんだなぁと実感するのだ。


二少年遭難供養碑前にて

道端の苔で手形遊び。何ともいえない触感が心地良い

遭難碑に静かに手を合わせさらに進むと、やたらブナの巨木が横倒しになっている場面が多くなる。右側の森がやけに明るいので覗いてみると、山肌に点々と切り株が見える。一面の木々を無差別に切り倒したことで風の流れや強さに変化が生まれ、樹齢何百年という巨木を倒すことに繋がったのは明白だ。でも、倒木は色鮮やかな苔が覆い、細い若木が何本も芽吹いていたのが幸いだった。ブナの大木が並ぶ緩やかな下り道をしばらく歩くと、鍋冠行者のお堂に到着する(15:30)。


蛇腹峠を越え、修験道の聖域をゆく

鍋冠りの行者堂前にて

お詣りを済ませた後、森に落ちている木の枝で吊り下げられた傘そっくりの鍋を叩いてみるとベン!と変な音(笑)。Masaと大笑いして鍋冠行者堂を後にする。お堂のすぐ先で道は稜線を通る奥駈古道と在来の奥駈道に分かれる。当然ながら僕らは古道へ。ところがこの古道は深い霧に包まれている上にほとんど人が通ることがないのか?今ひとつ道がはっきりしない。しかも決して鬱蒼とした森ではないのに、GPSが濁った警告音を発して衛星電波をロストしてしまう。こうなると地形図とシルヴァコンパス、そして“気配”を読むチカラだけが頼りである。ところがGPSが使えないとなると、感覚は研ぎ澄まされるようで、全く迷いもなくどんどん進めてしまうもの。道を読む感覚と生き物を見つける感覚は同じ中枢にあるのか、不思議なことにこの古道の区間で野鳥や小動物をやたら近くで見ることができた。中でも可愛かったのは茶色でメチャ可愛い顔をしたホンドリス(外来種のシマリスではない)。木の幹をすごいスピードで駆け上がったと思うと、木の先で隣の木に飛び移ったのか、しばらくしてまた違う木を駆け降りる。『Mamaには内緒だぞ。悔しがるから(笑)』ほんの数mの距離で妙高でも見ることができなかったホンドリスを見ることが出来て幸せな気分の僕らだった。


現在の奥駈道を外れ古の道・奥駈古道へと入る

踏み跡もない道を気配を頼りに彷徨う

小径のブナが密生する森から杉林に入ってすぐ、目の前に何やら人工物...冠木門のようである。ようやく「五番関」に到着だ。(15:55)「五番関」付近は広場になっていてそばに巨大な錫杖が立っている。冠木門の右側には...

『平成9年10月に一部の報道機関等により大峯山の女人禁制が然も解禁のごとく報道されましたが、この件につきましてはこれら報道機関の一方的な報道によるものであり、大峯山は決定も発表もしておりません。大峯山は今まで通り女人禁制でございますのでこのことを遵守されましてご参拝されますようお願いを申し上げます。 大峯山寺』

という看板が立てられている。看板の「女」の文字がことごとく醜く削られていて、錫杖のそばの英文の女人禁制の表示も「WOMAN」のWOが消えている。こともあろうか、冠木門の「女人結界門」という文字の「女」の字までが削られている。状況から見ると女人禁制反対論者の仕業にも思えるけど、僕は日本で唯一の女人禁制の山がいつまでもこのままであり続いて欲しいと願う。


五番関の女人結界に無事到着してホッ!
今度は女性陣と一緒に吉野まで歩いてみようか。

実際、霊山と呼ばれる山は古くからほとんどが女人禁制であった。
空海の高野山、最澄の比叡山などの修行の場はもちろん、白山、立山、出羽三山などの山岳霊場、富士山までもが女人禁制だったのだ。

明治初期に文明開化の流れで明治政府から女人禁制を禁制(笑)の命令が出て、富士山、立山、白山、比叡山が解禁。明治の終わりに高野山までもが解禁になったものの、出羽三山と大峯山だけが命令に従わなかった。
そして終戦後今度はGHQによる圧力もあったけど、『Japanese Monastry(日本の修道院)であるから女性を拒むのは当然』と説明、あっさりと理解され(笑)、戦後も女人禁制を貫くことになった。
出羽三山が御開山千四百年祭を機に1993年、女人禁制を解除した今、大峯山は日本で唯一の女人結界が存在する山となっている。

もちろん、大峯山も女人禁制を解くチャンスがなかったわけではなく、役行者没後千三百年御遠忌...つまり2000年に女性の入山を認める方向で調整を始めていたのだそうだ。

ところが、1997年、この情報を●日新聞がリークし、わざと年号を省略するという悪意を持った手法であたかもその年の開山日(5/3)から解禁になるという決定事項であるかのような報道を行った。
そこで地元は女人結界3カ所に↑の看板を設置する。
ところが!
1999年8月、何と!よりにもよってガッコのセンセ−...奈良県教職員組合の「男女共生教育研究推進委員会」なる女性教員の皆様がこっそりではなく、大挙して結界も看板も無視して洞川から入山し登頂してしまった(涙)。
この事件を機にそれまで柔軟な態度を見せていた大峯山寺も態度を硬化させ、今も女人禁制は続くのです、メデタシめでたしってことはないけど(笑)。とにかく、今のニッポンの負の部分...マスコミと教育がここでも暗い影を落としてるは事実。


←吉野14km-山上10km→

大峯山の女人禁制は女性蔑視とか差別とかとは全く違う次元の話だと思うし、この規律だけを以って文化とまでは言わないけど伝統なのは確かで、少なくともこうした心の問題を西洋的な尺度で簡単に計らないで欲しいと思う。まして、おばちゃんセンセー「四人組」ならぬ「十人組」が看板を無視して集団登山なんてもってのほか!
『思想や理念は自由だけど、多くの人が大切に思っている“心の境目”を強行突破するのは他人の気持ちを理解出来ない...結局は蔑視や差別の根底にあるものと同じだもんね。』
そんなことをMasaと話しながら五番関を後にして、意外にも奥駈道よりも険しい近畿自然歩道をトンネルに向けて下る。


連絡路の近畿自然歩道が意外と険しい

山上川沿いの良く整備された遊歩道

フィックスロープまであるまっすぐな下りを500mほどで五番関トンネル出口の毛又林道の舗装路に出る。ここからは山上ヶ岳の稜線を眺めつつ毛又谷沿いに林道を下り、毛又橋手前から熊野川の源流である山上川沿いの遊歩道へと進む。山上ヶ岳〜奥駈道を長時間歩いた僕らの足に優しい遊歩道の石畳を味わいつつ、僕らは清浄橋へと至った。OUTBACKに戻った僕らは、着替えを済ませて洞川温泉郷へと下る。


巨大なシダが群生している

清浄橋に戻った僕ら


天河神社

夕暮れの洞川温泉は週末の喧噪がウソのようにひっそりと静まり返っている。Mamaに頼まれた陀羅尼助丸を買い求め、そのまま天川へ。まずは天の川温泉で汗を流し、さっぱりと身を清めて天河神社にお詣りすることにする。すっかり日が落ちた天河神社は人影は全くなく、例によって何か特別な雰囲気を漂わせる中、小さな灯りが点った参道を進み、五十鈴を小さく鳴らしてお詣り。
天河神社へは行くのではなく呼ばれるのだ...そんな言葉を信じてしまうようなえも言われぬ空気感を味わい、全く言葉を発することなくお詣りを終える僕ら親子。ふたりが初めて会話を交わしたのは、天川を出て吉野川も近くなった下市の宿場街でのことだった。


夕暮れの静かな境内を進む

雰囲気のある境内

『今日は楽しかったね。』とMasa。
『あぁ、楽しかったし、すごく勉強になった。』と僕。

Masaの手には、年代物の真鍮製錫頭(行者が持つ錫杖のヘッドの部分)が握られている。僕らの感覚が妙に研ぎ澄まされていた奥駈古道の区間で落ち葉の中で僕が拾い上げたものだ。
奥駈道のような場所でこのような法具を拾うことが何を意味するのか?今は解らないけれど、少なくとも僕の目に留まるってことは何か僕が拾うべき理由があるに違いない。相当古いものらしく、全体に風化して角が取れ、しかも全ての輪が欠損している。帰宅してから真鍮棒を加工して輪を復元して元の姿に戻そうね、などとふたりで話しつつ僕らは家路を急いだ。
親父との「十五詣」の思い出になればいいなぁ...Masaはこの錫頭をお守りにするのだそうである。

 

 August.2006 MENU

 

 

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