魚飛渓は今も都会から遠い僻地である。
もちろん地元の小中学生も泳ぎに来ているけど、ここでBBQを楽しむのは遠くからクルマに乗ってやってくるヨソの人が多い。つまりみんな免許を持てる年齢に達した“大人”なのである。魚飛に捨てられている空き缶のほとんどがチューハイとビールだし、紙おむつを捨てたのは間違いなく母親or父親、生理用ナプキンは当然ながら大人の女性...みんな大人の仕業である。そんな大人が子を育て、その子がまたその次の世代を育てる...“美しい国”の美しくない未来に暗澹たる思いになるけれど、嘆いているだけではきっと何も始まらないわけで、僕の出来ること...つまり自分の責任において変えられる未来、つまりMasaとAzuだけは「こちら側」の人間に育てること、そして出来る範囲で実際にゴミを拾うことに努めたいと思う。
Masaが言う。
『ゴミを捨てないってだけでは、イジメを見て見ぬふりをしてる“その他大勢”と同じだからね。ゴミを横目に平気で、いや平気じゃないにしてもとりあえず遊べるという感覚は、結局はゴミが落ちている魚飛渓を認めてるのと同じことになると思う。空き缶ひとつだけでもいいから“拾う”というアクションを起こした瞬間、“ゴミはNo!”という意思表示したことになって...もしかしたら未来は変わるのかもしれないね。』
怒りではなく慈しみ、非難ではなく行動...平成生まれの若い自然愛好家は、大上段に構えるわけでも、怒りに震えるでもなく、淡々と、でもきわめて情熱的に行動を起こす。美しいものが汚されていく過程をリアルタイムに見てきた僕らがどうしてもマイナス思考になっちゃうのとは違って、生まれた時すでに汚れきった自然を見た彼らは、ただ汚れたものを美しくしたいという思い...ある意味プラス思考なのかもなぁって思うけれど、それにしてもゴミ拾いするMasaは実に楽しそうだ。
『ゴミが落ちて汚れているのは目の前にあるこの川なんだけど、でも本当に汚れているのはゴミを捨てる人の心だよね。オレがゴミを拾ったって、その人たちの心までキレイにすることは出来ないしなぁって...なんだか無駄なことしてる気もしなくないけど、そんなことよりゴミを拾ってキレイになった川で遊ぶとオレの心がキレイになる気がするんだよな。よーするに自己満足。自分のためなんだよね。』
ハハハハ...結局は“ジコチュー”かよ?(笑)「誰かのために」とか「自然のために」とかじゃなく、「自分が楽しむために」目障りなものを排除してるだけという感覚...えげつない“生っぽい”ゴミを素手で拾うのは確かにイヤだけど、楽しく気分良く遊ぶための準備だと割り切れば...要するに楽しいダウンリバーのために重いカヌーを運んだり面倒な車の回送をするのが当然であるのと同じように。
実際にやってみるとカヌーをいかに楽に運ぶか?とかクルマの回送を楽しむ工夫をすること自体が楽しめるのと同じように、ゴミ拾い自体も宝探し感覚で意外に楽しく、また達成感もあったりするわけだし。
眉間にシワを寄せ怒りに震えながらゴミを拾う昭和生まれ。ウヒャウヒャ笑いながら「自分のため」に楽しくゴミを拾う平成生まれ...アプローチは正反対だけど、目指すものは昭和も平成も同じみたいである。
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