ログハウスを建てることになった。
「いつかは、山にログハウスの別荘を持ちたい!」結婚したばかりの僕たちは、よくそんな夢のような話をして盛り上がっていた。2人でいればどんな夢もきっと叶う。そう思っていた。しかし、いつしか年を取るにつれて現実が押し寄せてきた。子供が生まれ、大きくなるにつれて教育費や将来の生涯設計など、夢ばかりではない今すぐに対処しなくてはならない課題が山積し、「別荘」などというものが全く非現実的なものに変わってしまったのである。
ところが、娘が生まれた1995年、急にログハウスが僕ら2人の話題にのぼることになる。
ひとつ目の理由は、娘が軽いアトピー性皮膚炎だったことである。よく知られているようにアトピーは「原因不明の」という名前が示すとおり未だ本当の原因の解明されていないアレルギー性疾患である。ところが決定的な治療薬がないかわりにハウスダストやダニなどの「住環境」を改善することで完治した例が多く報告されていて、育児本や雑誌などにアトピー対策としての自然素材住宅=ログハウスがよく紹介されていたのだった。もちろん最近話題の建材の有害成分が環境ホルモン化するいわゆる「シックハウス」も当時から問題視され始めていた。「ログハウスってアトピーに効くんだってね。」「効くのかどうか住んでみないとわかんないけど、確かに健康には良さそうだよね。」
そして2つめの理由、それは前年に起きた奥尻島の津波被害とその年の1月に起きた阪神大震災だった。僕の家は関西ではないのでなんともなかったのだが、神戸の叔父のマンションは倒壊。長期の避難所暮らしを余儀無くされた。そして叔父から伝え聞いた生々しい状況。建物の倒壊、そしてそれに伴う火災。たとえ圧死を免れても燃え盛る新建材の吐き出す有毒ガスでたちまち避難できない状況に陥る...。理由はともかく、本来家族を守るべき「家」が家族を傷つける。僕らにはそれがショックだった。ログハウスは耐震性に優れるという説の真偽はともかくあの奥尻の津波にもビクともしなかったという逸話や「太い丸太という天然の建材を使ったログハウスは鉄骨等より燃え落ちるまでの時間が長く、有毒ガスの発生も少ない。」といった話、そして千年以上の時を超え今も宝物を守り続ける奈良・東大寺の正倉院が同じログハウス(校倉造り)である点などを以前から知っていた僕らは、これからの人生をすごし子供達を育てていくステージとして「ログハウス」を選びたい...そう考え、「別荘は無理だけど、ログハウスは夢に終わらせたくないね。」そう語り合ったのだった。「住宅」としてのログハウス。そんな概念が生まれたのはあの頃だったのかもしれない。
しかし「住宅としてのログハウス」を考える時、とりまく現実は厳しいものだった。ログハウスが「特別」な建物だったあの頃、建築費用は一般住宅の倍以上もしたし、防火法などの規制により100坪以下の住宅地にログハウスを建築することは、法律を守る限り不可能に近い状況だったのだ。そのうえ総ニ階の建築は法律により禁止されており、二階はロフトとしての使用しかできなかった。つまり「ログハウスを自宅として利用するのはやめなさい」とお上が通達を出しているようなものだったのである。
「まだまだこの家も使えるし、貯金もないからログハウスなんて無理だよね。」そんな言い訳をしながら僕らは3年を過ごした。いつしかログハウスは実現不可能な夢となってしまっていた。もちろん神戸に学んだ僕たちは家具を耐震金具で壁に固定し、トイレには自作の非常用の水タンクを設けた。給湯器はガスをやめて灯油に切り替えたし、非常用電源としてジェネレ-タ-も備え付けた。行政の緊急援助が始まるまでの5日分の食料の備蓄、ソーラー発電による電池の確保...もちろんアトピー対策として家中のカーペットを全て剥がすということも行った。でも、僕らは何か煮え切らないものを感じていた。家という器に対する機能だけじゃなく感情的な何か言い表せない部分に違和感を感じながら...。
そんな僕らが、今こうしてログハウスを建てようとしている。消費者の熱意と企業の努力による建築基準法の緩和は1998年7月の「土壁同等認定」をもって最終局面を迎えた。これにより「自宅としてのログハウス」が限定的ではあるが可能になったのだ!今現在、僕たちのログハウス建築は始まっていない。しかし「予算はない、しかし熱意はある」という僕らがログハウスを実現させていくに当たって、その過程をここに記録として残したいと思う。これからログハウスを建てようと考えている人達のために。そして僕らと子供達のために。